支倉常長について

仙台市博物館に行ったところ、「支倉常長」という名前が目についた。名前だけ一人歩きしており、何をした人なのかはわからなかったので調べてみた。自分にとって石原良純的な存在?

 

経歴

1571 山口常成の子供として現在の山形県米沢市に誕生

1578 叔父の支倉時政の養子となる

1592 伊達政宗に従い朝鮮出兵に従軍

1612 遣欧使節団の正史として、サン・セバスチャン号で浦賀寄り出航するが暴風で遭難し仙台へ戻る

1613 月の浦(石巻佐藤忠良の彫刻ある)から、サン・ファン・バウティスタ号で再び出航(日本人で初めて太平洋と太平洋を横断!)

1615 エスパーニャ国王フェリペ3世に謁見(その際国王臨席のもと洗礼を受け、日本人初のフランシスコ派カトリック教徒になった)し、ローマ教皇パウルス5世に謁見(ローマでは公民権を与えられ、唯一貴族の称号をえた)

1620 交渉決裂(→日本でその頃キリスト教禁止令が出ていたためと言われている)し帰国

1622 52歳で生涯を終える?(光明寺は1621年、圓福寺は1622年7月、支倉常長メモリアルパークは1654年←てことは84まで生きたことになりこれはちょっと誤差では済まない、、、当時の寿命は45くらいだしw)

その後支倉家は彼の嫡男(一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子)が継ぐが家臣がキリシタンであった責任を取って切腹。断絶→その子供の時に許されて再興し、今13代目。

 

常長一行が鼻をかんで捨てた懐紙(今のポケットティッシュ)が人気で拾ってた西欧人もいたらしい。

当時は伊達家も公にできなかったため、明治時代になって岩倉使節団がヨーロッパで常長の書状を発見したことで初めて功績を認められた。

常長が滞在したスペインのコリア・デル・リオにハポン(日本を意味する)という姓の人が800人程度存在しており、使節団として来てスペインに残った人の子孫である可能性が高い。多分そう。

彼のお墓は3つあって、北山五山(資福寺とか)の一つである光明寺、彼の居城であった上館城の麓にある川崎町支倉地区の圓福寺、宮城県大郷町支倉常長メモリアルパークでどれが本物か不明。亡くなった日が支倉常長メモリアルパークは他の二つよりも32年離れてる、、、歴史って面白いよね。おしまい

 

戦国夜話 

「日本は古代から一つの言語を用いる、一つの民族による、一つの国家を形成してきた」というがそれは正しいのだろうかという問いかけからこの本は始まる。

果たして日本は常に一つだったのか。答えは否だと思われる。特に室町から戦国時代を思い浮かべてみると瞭然だ。足利将軍家は遠国(東北・関東地方と九州)は将軍の意のままにならなくても放っておけばいい(by三宝満済)という考え方を持っていた。そのため、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱において、常に在京し政治を行っていた近国の大名のみが戦うこととなり、遠国は全くこの日本を揺るがす10年にも及ぶ戦い干渉しなかった。これによって幕府の無力さが公に示され、足利将軍家は政治的な求心力を失った。長年留守にしていたため衰退し戦国大名としての道を歩むことはできなかった近国の大名とは対照的に、遠国の大名が台頭し戦国大名となった。こうして群雄割拠が始まり、日本は散り散りに分裂した。その後関ヶ原の戦いの後徳川家康によって日本は一つになったと言える。

本書はその関ヶ原前後の、日本が一つになって平和になるか、戦世に戻り小競り合いが続くのかの時期についての話がまとまっていた。

 

以後は自分が気になった話のみとりとめもなく書いていこうと思う。

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